以下杀上为“弑”的名分性表述,最早见于《左传》:“凡自虐其君曰弑”,但《文选注》却引作“杀”。因为无法排除后世改订的可能,《左传》原作何字实难遽定。《国语》中“下虐上为弑”亦然。最早明确“弑”字下杀上涵义的是《说文解字》:“弑,臣杀君也。《易》曰臣弑其君。”许氏与《白虎通》同引《周易·文言传》,却省略“非一朝一夕之故,其所由来者渐”一句,或是意图消弭弑之“试”“伺”本义;同时,他又将以往典籍中各种类型的“弑”字用例都加以遮掩,仅以“臣杀君”为“弑”字全部内涵。 《说文》的解释预示着“弑”字语义政治伦理化的趋势:从本指无名分限制的“试杀”,逐渐趋向于隐含伦理批判的下杀上。因此,阮元说:“君臣父子之义定,则此字之书法读法亦定。”俞正燮也说:“弑者,畏忌之不敢直杀也。古语上下共之,秦汉以后始定于一。”当然,许慎虽确定了“弑”的名分意义,却未对其外延作明确限定:“弑,臣杀君也”,只说明凡称“弑”均指臣杀君,却未明确臣杀君是否均称“弑”。“弑”字语义此后的发展,在政治伦理意识的主导下进一步明确化。 俞正燮虽称“弑”之伦理内涵,“秦汉以后始定于一”。事实上,历史错综复杂,绝非边界分明,“弑”字伦理内涵之确定,经历了漫长的过程。到隋唐时期,同一古籍不同版本之间,仍普遍存在弑杀混用现象。 《经典释文》训释先秦经典,每谓“杀,本或作弑”或“弑,本又作杀”。可见陆德明所据底本与别本多有弑杀异文,此类异文所见共25处。对此,陆氏仅以“或作”“又作”注明,而不以“当作”订正,说明他一定程度上接受这种差异。在开成石经中,《春秋》同一则经文于《三传》之间,亦存在弑杀异文。如《公羊传》僖公九年经“晋里克弑其君之子奚齐”与昭公十三年“楚公子弃疾弑公子比”,《穀梁传》《左传》均作“杀”。弑杀异文,《春秋》一字褒贬如何可能 可见与陆德明一样,其中均体现对弑杀混用的宽松态度。 由此可见,弑杀混用的语用规则,仍持续至隋唐时期。但与汉代之混用不同的是,此时之混用只限于下杀上,而上杀下则只书“杀”,不再见书“弑”之例。这是对许慎“弑”字涵义伦理化论述的呼应。
唐代以降、古書の「殺君」表記の訂正については、長い間続いてきた。『春秋繁露』『雄羊解诂』の「殺君」に対して述べたように、曙を凌ぎ、陳立などは「殺は殺しとする」と訂正した。その甚だしきに至っては「殺す字はすべて殺す」に変更し、減殺も誤って「殺す」に変更した。このような厳しい態度は、陸徳明が殺しを区別せず、異文だけを注ぎ込むやり方とは全く異なる。陸氏の殺戮に対する態度は、後儒にも批判されている。段玉裁は裁断の認識がなく、正誤の法に合わないと非難し、「これはどんなに大きなことで、聖人が世に垂らして教えを立てる本には一定の字がなく、本をごまかすことができ、読者がその字を決めるのを待つことができるだろうか」と言った。「『春秋』書は殺して、万世臣道の防を立てる」。唐代以降の古書訂正「殺君」の表現の出発点であり、そこには鮮明な政治倫理が示されている。周寿昌は「史筆の厳しさはすべてこの字を頼りにしており、古殺建の2字が多く混ざり合うことができず、踏正しない」とはばからずに指摘した。盧文弯もその経緯を明らかにした。 思想史の変化の筋は非常に複雑で、それぞれの思想の手がかりのノードは完全に明らかではない。それでも、許慎から劉知幾から唐以降の儒者まで、殺しに関する名分的な表現が殺しの混用から抜け出し、最終的には殺しに関する権威的な解釈になっていることが明らかになった。この変化を伝統的な言語学の範疇だけから解釈すると、要領を得ないかもしれない。
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